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李鍾賛 (1916年-1983年) : ミニ英和和英辞書
李鍾賛 (1916年-1983年)[い じょんちゃん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り, すもも]
 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina 
: [さん]
 【名詞】 1. legend 2. caption 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

李鍾賛 (1916年-1983年) : ウィキペディア日本語版
李鍾賛 (1916年-1983年)[い じょんちゃん]

李 鍾賛(イ・ジョンチャン、、1916年3月10日-1983年2月10日)は大韓民国軍人国会議員慶州の名家で本籍はソウル。朝鮮戦争開戦時は首都警備司令官。後に陸軍参謀総長、国防部長官。生涯、軍の政治的中立を強調したことから「真の軍人」と評価されている。
== 人物 ==

1916年3月、京城府にて李圭元()の息子として生まれる。李夏榮〔日露戦争前に外相、後に法相を務め、日韓併合時は中枢院顧問で子爵に列せられた。〕の孫にあたり子爵の家柄であったが襲爵を辞退して話題の人となった。
京城師範学校付属初等学校を経て、1933年に京城中学校を卒業。陸軍士官学校に入校して1937年に49期生として卒業。同期に蔡秉徳。当時、陸軍士官学校に学んで正規将校となった朝鮮人達の多くは日本名に改名したが李鍾賛はしなかった。
支那事変が勃発すると上海戦線へ派遣される。1940年、工兵中尉。1942年、第33回論功行賞で功五級金鵄勲章と勲六等単光旭日章を受章する。
船舶工兵に転科し、船舶部隊参謀として南方戦線を転戦した〔。終戦時は独立工兵第15連隊連隊長代理であった。1946年に帰国。
帰国後は隠居生活に入り謹慎の意を表しており、1946年初め頃に李應俊から南朝鮮国防警備隊の入隊を何度か勧められたが断ってきた。
1948年、李始榮副大統領に勧告され韓国陸軍に入隊。任大佐(軍番15108番)、国防部第一局長。1949年11月、政訓局長。
1950年6月18日、首都警備司令部司令官。首都警備司令部の編成は第2連隊、第3連隊、第18連隊であったが、6月20日の部隊移動で第2連隊が洪川に移駐して第6師団の隷下となり洪川に駐屯している第8連隊が首都警備司令部の隷下になった。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。25日朝に非常呼集を受けて登庁したが、すでに第3連隊が第7師団(劉載興准将)に配属されて抱川に出動しており、第18連隊は休暇、外泊している兵士を呼集中であった。洪川から移動中の第8連隊はまだ到着しておらず掌握する部隊が少なかった。さらに25日午後には第18連隊も第7師団に配属され、到着した第8連隊は陸軍本部の予備となったので李鍾賛の指揮する部隊が無くなった。
1950年6月28日、ソウルが陥落し、漢江線の防御に移った。李鍾賛は混成首都師団長〔編成は第8連隊主力、第18連隊の第1大隊と第3大隊、機甲連隊、臨編大隊。〕に任命され永同浦を守備した。
1950年7月3日、北朝鮮軍が渡河し、漢江線が崩壊した。首都師団は再編成されたが李鍾賛は疲労しており師団長は李俊植に交代した。李鍾賛は蔡秉徳の指揮下に入り、第9師団の新編に取りかかった。
1950年8月、中央訓練所本部長。
1950年9月、第3師団長〔編成は第22連隊、第23連隊、第10連隊。〕に就任。東海岸正面の防御に任じ、北進して咸鏡北道に到達した時、戦争終結を予期した人事異動で11月12日に兵器行政本部長兼歩兵学校長となる。
1951年6月、少将昇進と同時に陸軍参謀総長に就任。国民防衛軍事件の後始末、居昌事件、徐珉濠事件〔1952年4月、無所属民議員の徐珉濠が自宅に侵入した徐昌善少尉を護身用の拳銃で射殺した事件。〕、釜山政治波動等が次々に発生し、それらの裁判に忙殺された。また軍事と政治の接点である参謀総長を務めた李鍾賛は政府、韓国軍、国連軍の調整で苦心した。
1952年1月12日、任中将。
1952年5月、李承晩は憲法を間接選挙制から直接選挙制に改正するため(釜山政治波動)〔与党の勢力は4分の1弱に減っていたため間接選挙制での再選は絶望的であった。〕、李鍾賛に戒厳令の宣布と兵力による反対議員の活動を封殺するように要求した。李鍾賛はゲリラの活動が軽視できない状況であったため戒厳令の宣布に応じたが、兵力の使用は軍隊の政治介入であり断固拒否した。激怒した李承晩は劉載興を呼び、李鍾賛を砲殺〔大砲で吹き飛ばす極刑。〕するように命じたが、劉載興の説得により取消しとなった。
1952年7月、参謀総長を辞任してアメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。
1953年7月、陸軍大学総長。
1960年、4・19革命後に国防部長官。軍を掌握して民政移譲に支障が出ないようにした〔。白善燁大将、劉載興中将に退役を求めた〔。
1961年、朴正煕5・16軍事クーデター協力を拒否。
1961年6月、駐イタリア大使。1967年9月に大使を辞任。
1968年、在郷軍人会諮問委員。
1970年、コリア・エンジニアリング社長。
1972年、韓国・イタリア協会会長。
1973年、新韓航業社社長。
1976年2月、第9代国会議員維新政友会2期)当選。同年3月、国会国防委員会委員。
1978年1月、国会安保問題研究委員会委員。同年3月、ヨーロッパ各国の防衛産業を視察。同年12月、第10代国会議員(維新政友会3期)再選。
1979年、維新政友会副議長。
1983年2月10日、心臓発作で死亡〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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